katakuruの日記

しゃべり下手のおじさんが、太らない習慣を手に入れた方法を干からびるまで絞り出します。たまに育児を筆頭にした雑感も愛を持って書きます。

日本人は恥を飼う

恥を飼う

日本を恥の文化と表現したのは文化人類学者のルース・ベネディクトである。その記述があまりにも有名な「菊と刀」では、日本人が罪の意識が薄い扱いとしているのは容易に飲み込めないにしても、諸外国に比べ恥を重んじる行動規範であることは納得出来る。

 


どうして日本人は諸外国と比べて振る舞いが特異なのか。

 


日本人の行動を分析しようとするとどうしても考えから外せないのが恥というものの重さである。

 

目次

 

罪とは何か

罪とは何か



罪は償えばすべて消え去るのか。考えてみるとまず突き当たるのが、罪という言葉は実は頻繁には頭に浮かぶものではないということだ。

待ち合わせに遅刻をしたときに罪と思うかというと、そう大層には思わないはずである。しかし客観的に考えれば人の時間を無駄にしたわけだから、リスクを受けるはずでない人にリスクを与えた「罪」である。日常には言語的に表現すると罪ではあるが現実的には非言語的に扱われ、概念的にしか触れられないことが多い。罪は日本人にとって日常的なようで遠い存在なのだ。

日本人にとって、と言ったのは理由がある。やはり聖書の記述から精神の根本を宗教的戒律に教化されている欧米人は、罪を自らの身の回りに置いて考えるように思うのだ。

何故罪という概念が存在するかというと、何か(誰か)との約束があったからでありその破りを悔い許しを乞う、罪の贖いとはそういうものだが、これは神に人格を見ているからではないだろうか。どこか神と人を同格に扱っていることの表れのような気がしている。

日本人のような神道・仏教の精神が心に入り込んでいるとどうだろうか。罪を誰に対して悔いるかというと、集団への裏切りに対してになる。もう少し正確に言うと自我は定義できないから、裏切りは自分に対しての行為と同じである。日本人が罪を悔いるのは、何か特定の人格との対話ではなく集団とのつながり、調和の乱れを恐怖する感情からなのではないだろうか。

 

罪の排泄


許しの乞いや懺悔、告白により、「罪を償う」という表現をする。欧米諸国では自分の罪をこの世から消し去ろうとする心の動向がある。日本人にはあまり無い感覚ではないだろうか。日本人の感覚では、罪が消えるとは思ってないし消し方を知らない。消せるとしたら法的に罰されたり刑に服し罰金を払い和解することで、客観的には罪は消える。しかし心の中から消す方法はなく、前科のある人間は「過去に罪のあった人間」として得体の知れない汚れのようなものを透過して見られてしまうのが現実ではないだろうか。犯罪歴のある人間を差別する意図はは無いが、どうしても残ってしまう罪の完全な排泄の方法が日本人には無いのである。

 

罪を恥と切り離せない日本人

この罪の意識ということ、その起こりが恥と似ていることを振り返っていただきたい。社会に対する裏切りを罪とし、社会は自らを裏切った者に罪を着せる。個が社会との繋がりを絶たれる際に罪として認識されるが、これが恥の起こりと同じなのである。

恥が名誉を脅かされる際に起こるもので集団との関係性が乱れることを恐怖して感じられるものであり、罪と同化している。いや、日本人には恥の方が存在としては大きいと言えるに違いない。それは次の段落から説明する。

 

 

 

恥はずっと残る


そもそも罪は心の中に残さず消し去るべきなのだろうか。

 

その自分を苦しめ続ける恥は、心に沈殿し代謝されることがない。恥が罪と反省の思考循環を呼び起こし、エクセルの循環参照エラーのように修復を訴えるポップアップウィンドウが、ふとした瞬間に意識に飛び入ってくる。しかしこの恥を消し去る方法は、欧米のように罪と同時に滅ぼされるものではないから、日本人には見つからないのだ。

 


恥は心にとどまり常に行き過ぎた行動を制御し続け、犯罪抑止に一役買っている。

日本人は恥という自己罰システムを持つというわけだ。だから生きることとは恥との付き合いであり、罪より恥の方が存在が大きいのである。

 

 

恥のコミュニケーション

恥のコミュニケーション

恥を利用した日本人のコミュニケーションに「イジる」というものがある。このイジりが行わるる際には非常に高度で繊細な心理的空中戦が行われている。対象者の羞恥心を他の者が感じ取ることと、さらに周りの者がそれを感覚的に共有している状態が前提で、日本では比較的自然となされるコミュニケーションなのである。

人の感情を、広く感覚的に共感できている状態というのは、文化や人種が多種集まるコミュニティでは難しい。アメリカをはじめとする人種のるつぼのような社会では共感を前提とした会話は非効率的だ。だからアメリカンコメディでは日本のようにツッコミが存在しない。ツッコミはボケという非常識を訂正する立場であり行為である。人種、文化が違って感覚や倫理観も違う輪の中で常識・非常識が様々に入り混じっていては、非常識を訂正することが聴衆の認識の収束につながらず、笑いを産まないのだ。

 


話が少し逸れてしまったが、「イジる」はスタイルが違う「ツッコミ」とも言え、効果的な一言によりある程度持たれていた共通認識をさらに収束するという点で本質的には同じである。つまりアメリカンコメディの中で一生懸命ツッコんでも笑いが起きにくいことに如実に表れているように、「イジる」のも欧米では困難なことだろうと思う。

しかし、欧米でも極親しい仲間に対し「ディスる」ことがあるではないか。これはどう違うのだろうか。

「ディスる」はイジるよりも新しい言葉のように思う。2007年放送のリンカーン(TBS系列)で練マザファッカーというラッパー集団が使っていて当時衝撃を覚えた。件の言葉はこの登場がメディアとしては先駆的ではなかったか。

それは余談である。仲間に愛を持って直接悪く言うという形の「ディスる」コミュニケーションはイジるとは質が少し違うと思う。イジるは少し広い輪の中での恥の共感をエネルギーとし、極身近のあくまで戯れの言葉のやり取りの心地よさがエネルギーとなっているのがディスりである。「イジる」「ツッコむ」は調和を、「ディスる」は個を、それぞれの媒体としている。

 

 

恥を利用した「イジる」ということが欧米ではあまり起こらないということもまた、日本での恥の在り方の特異性を表しているのではないだろうか。

 

 

 

最後に

日本人の倫理観やコミュニケーションの仕方、相手の感情の感知に独特なものかあるのはこうして、恥を飼い活かしているためではないだろうか。

今でも思い出しては死にたくなる過去の恥ずかしい記憶の一つや二つ、皆さんもおありだろう。

 


忘れたいだろうが飼うしかない。飼ってその

恩恵を受けよう。

 

あなたを形作るその恥に振り回され心を惑わされるのもまた、飼い主であるあなたしかいないのである。

 

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